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十万石まんじゅうの誕生
昭和20年太平洋戦争での敗戦。終戦後、砂糖の統制が解かれてまもなくの頃、 旧忍藩十万石の地「行田」にその忍藩自慢のお米の形をしたしっとりと白い肌のまんじゅうが産声をあげました。
行田名物として「十万石まんじゅう」と命名。 敗戦から這い上がるためには、本物しかないと先代が作った一品でした。
棟方志功先生との出会いから行田市の銘菓となるまで
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棟方 志功先生
財団法人
棟方志功記念館 -
昭和28年、世界的な板画家「棟方志功(むなかたしこう)先生」は人々に、その真価を認められていませんでした。 先生と親交を深めていた行田市の渥美大童先生(書道家)のご紹介により、いちはやく先生の作品に接した若き日の先代は、「これだ!」「これからの菓子屋は先生のこの人間味あふれた暖かさ、そしてバイタリティが必要だ。」と開眼。
さっそく、「十万石まんじゅう」を小脇に抱え、先生のもとを尋ね、「是非、このまんじゅうを食べてみてください。」と差出したと言います。無類の甘党だった志功先生は「あんたが作ったのかい」と一口食べ、一気に5個もお召し上がりになられたとか。6個目のまんじゅうに手を伸ばしながら、
「うまい」
「行田名物にしておくには」
「うますぎる」とおっしゃり、直ちに絵筆をお持ちになりました。 忍城のお姫様が生きていればきっと同じ事を言ったに違いないと皆様 おなじみになりました絵をお描きくださったのです。
ところが、お気づきでしょうか。 十万石幔頭とお書きになったのです。先代が、すかさず、「先生、幔は食片の饅です。」と指摘すると、
「このまんじゅうが全国に広く知れわたる事を願ってこの字にした。」と お答えくださったのです。 先代は、改めて先生の暖かい配慮に感動し、そのまま使わせていただくことになりました。「私は私でなければ描けない絵をかく。あんたはあんたにしかつくれない美味しい菓子を作りなさい。」とお話し下さり、その後も、ご生前は並々ならぬお力添えを いただきました。十万石にとって、棟方志功先生の絵は、菓子作りの原点ともいえるのです。 そして、先生の絵を使い続けることが、先生とお約束した、十万石にしか作れない美味しさをお客様にお届けする心の証なのです。